映画の釜山行きについて思ったこと

風呂に入りながら以前観た映画についてツラツラ考えていたところ、韓国映画の「釜山行き」の邦題「新感染 ファイナル・エクスプレス」がダサすぎたよなぁと思いつつ、ふと、なぜ行先が釜山だったのだろうと考えてしまった。

子供の母親が釜山に住んでいるという設定ながら、その母親は最後まで一切映画には出てこず、釜山の景色すら一切映らずじまい。たしかに、釜山に向かう超特急の中がメインだから、母親や釜山の景色がなくても問題はないのだが。

それにしても、なぜ行先が釜山なのか。
この映画のキーワードをいくつか並べた時、行先が釜山である必要があったと気づいた。

ゾンビの急速な拡大、感染力の強さ、凶暴性、緊急事態、非日常性、韓国社会の縮図を描いたという監督の言葉。

韓国社会の縮図と言った監督は、非日常での人間ドラマだけを言ったのではなく、迫りくる非日常の危機をも指していたのではないだろうか。

1950年。時の大統領だった李承晩が日本侵攻を企て、釜山に軍隊を集中させた隙を金日成に攻め込まれて始まった朝鮮戦争。敗走につぐ敗走の結果、日本に駐留していたアメリカ軍をはじめとする国連軍の支援により釜山で食い止め、そこから反撃して今の38度線で休戦となった。
北朝鮮という身近な脅威をゾンビになぞらえたのではないだろうか。

そう考えると、この「釜山行き」という映画は単なる娯楽映画ではなく、ましてや韓国初のゾンビ映画という小さな枠にはまらない、メッセージ性が高い映画だったのではないだろうか。

また、映画の中で子供に歌わせたのが、韓国の曲ではなくハワイの「アロハオエ」だったことも、そこに隠れたメッセージがあると思うのです。なぜなら、ハワイ語の歌詞には「侵略者に踏みにじられ祖国を失ったハワイ民の悲しみ」が込められているからです。

つまり、北朝鮮に踏みにじられ祖国を失った韓国民の悲しみ。

そういう危機感をメッセージにした映画と考えられるのかなと思ったりしました。